山に登ろうとする時、私たちはそれぞれの方法で頂上を目指します。ある人はリュックを背負ってふもとからのんびりと歩いて。ある人はスカイラインを自動車で。ケーブルカーやロープウェイを利用する人もいるでしょうし、ヘリコプターで一気に登る人もいるでしょう。飛行機からパラシュートで頂上に降り立つ人もいるかも知れません。
山の頂上は悟りの世界、そこに登る方法が宗教や宗派の違いです。登山は修行、その方法を選び行ずるのはあなた自身です。
![]() 中国の赤城山・天台山遠景 |
天台山には、古来、仏僧・神仙・道士が多く住んでいました。そして、天帝の居所である紫微星(しびせい)を支える三台星の真下にある山こそが、この天台山であるという伝説がありました。地上で最も神聖な場所だということです。天の紫微星は北極星を中心とした星座、上台・中台・下台の三台星は大熊座の一部と推測されています。また、「天の三台 地の三公」といって、地上には皇帝を補佐する太尉(軍事)・司徒(教育・文化)・司空(人民・土地)の3宰相がいるのと同様に、天空には天帝を補佐する三台があるというのです。つまり、天帝は仏陀あるいは真理・悟りそのものです。そして、三台こそが仏法を守護して、衆生が真理を知り悟りを開くための教え、すなわち天台宗なのです。
ここでちょっとだけ面倒な文章を読んでください。天台宗の基本規則である『天台宗宗憲』第3章第4条(宗旨)には次のように記されています。
「天台宗は、法華一乗(いちじょう)の教えを根本として、仏性(ぶっしょう)の普遍と尊厳を自信し、自行化他(じぎょうけた)の菩薩道を並べ行い、正法興隆(しょうぼうこうりゅう)、人類救済の聖業に努め、かつ、国家社会の文化開発に尽くし、皆成
仏道(かいじょうぶつどう)の実現と仏国土の建設とにあらゆる宗教的努力をいたすことを宗旨とする」
難しいことは追々解説させていただきますが、要するに、天台宗という宗派は人々が悟りを開き、世界が平和に、美しく、やさしく発展していくための手助けをする宗派だということです。
最後に天台宗の宗章を紹介しておきましょう。国家(現代的には世界、あるいは宇宙レベルの)をあらわす16菊の中央に3ツ星(三諦章)を配した紋が天台宗の宗章です。
![]() 天台宗の宗章「三諦章」 |
紀元前5〜6世紀頃、インドで生まれたゴータマ・ブッダ、すなわち釈尊が説いた教えが仏教です。仏教はここから出発して、2千年という時を経るに従い、あるいは進歩し衰退し、あるいは分裂・合併・融合を繰り返し、様々に変化して現在に到ります。もちろん、天台宗もその流れの中で脈々と維持され発展してきたわけですが、今回はすべての基本である釈尊についての、意外に思われるかも知れませんが、仏伝のデフォルメを廃せば「なぁーんだ、なるほど」という側面をいくつか列挙してみたいと思います。
苦行時代の釈尊 |
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いかがでしたか? 上の事項には諸説も多く、また、他にいくつも意外と思われる事実もあるのですが、知っておいていただきたいのは、釈尊の仏教は決して特別の権威的な宗教ではないということ、人間の心にスポットを当てた個々人各々のための宗教であったということです。このことが、後に天台宗という宗派の教理の中で遺憾なく発揮されるのです。
※注※ 天台大師智
(ちぎ)は、以下の文中では「智ギ」としています。
インドで釈尊がお悟りになって興っていった仏教は、やがてアジア各地に広がり、その土地土地の様々な宗教と対立、融合しながら発展していきます。
ある学者は、インド仏教は譬喩・例話を駆使して人のあり方を平易に説いた道徳的新興宗教、中国仏教はそれを哲学的思惟で体系化し、日本仏教は信仰的実践宗教にまだ高めた、と評しました。異論はあるかも知れませんが、大雑把な位置づけにはなるでしょう。
天台宗が興った当時の中国仏教は、儒教や道教、老荘思想といった古来の宗教と対立しながら、独自の展開を見せますが、その教えの代表的形態は、天台・華厳・禅・念仏の思想であったとも言われています。
仏教に改良を加え、中国の国土・人民にあった仏教を模索していた南岳慧思禅師(なんがくえしぜんじ)の弟子に智ギという秀才がいました。智ギ禅師は大蘇山(だいそざん)で悟りを開いた後、都である金陵(きんりょう)で法華経の講義等を行って人々の崇敬を集めていましたが、やがて世俗を嫌って天台山に入り、天子の援助を受け、仏隴峰(ぶつろうほう)に修禅寺を開創して自らの唱える仏教の根本道場としました。
その教えとは、法華経を中心とした釈尊の教えの統一と、法華経の教えに立脚した悟りへの実践で、智ギ禅師独自のこの教理こそが、いわゆる天台教学と言われる中国仏教屈指の思想なのです。
智ギ禅師は、晋王広(しんのうこう。後の隋 煬帝[ようだい])から特に「智者」の号を賜り、さらに天台山に住したことによって「天台大師」と尊称されるようになりました。また、天台大師の思想が次第に中国全土に浸透し、教団も大きくなってきて、そこに天台宗の名が自然に生まれてきたわけです。
私ども天台宗の僧侶は、天台宗を開創された智ギ禅師を「高祖」、その教えを日本に伝え、さらに発展させた伝教大師最澄を「宗祖」と尊称させていただいています。
天台大師にはじまる天台宗は、その後6代を経て日本の伝教大師最澄に伝わります。天台大師が亡くなられてから200余年後、中国は唐の時代、日本は平安朝の頃です。
釈尊 摩訶迦葉 阿難尊者 商那和修 鞠多尊者 提多迦 弥遮迦 仏陀難提 仏陀蜜多 脇尊者 富那奢 馬鳴 毘羅比丘 龍樹 恵文 恵思 智ギ 章安 智威 恵威 玄朗 湛然 行満 道邃 最澄 (異論あり)

最澄は、修学中、既に鑑真和上の伝来した断片的な天台の典籍を学んでおり、末法(仏法が廃れ世の中が乱れる時代。1052年がその初年とされ、当時は末法の危機感が流布していた)間近な今こそ、天台の教えが必要であると確信していたのです。
最澄を心の師と仰ぎ、比叡山寺一乗止観院の落慶法要にも行幸したと伝えられる桓武天皇は、入唐求法を決意した最澄に対し、還学生(げんがくしょう。視察的意味あいの短期留学生)として藤原葛野麻呂大使の遣唐使船に加わることを許可し、十分な留学費を与え、通訳に弟子の義真や従者に丹
福成(たじのふくなり)等が同行することも認めてくれました。さらに、留学費用については、皇太子(後の平城天皇)等、有力者の多大な援助があったことも忘れてなりません。
とはいえ、技術の未熟な当時の航海は困難をきわめ、難波(大阪)を発った一行は、一度嵐で九州に漂着し、翌年肥前(ながさき)から再び遣唐船に合流して、2カ月近くの航海の末、ようやく中国にたどり着くという有り様でした。しかも、4隻の遣唐船のうち無事に中国に到着したのは、大使や橘
逸勢、空海等の乗った第1船と最澄等の乗った第2船のみだったのです。
ともあれ、寧波(にんぽう)に上陸した第2船の一行は都 長安に向かいますが、最澄はすぐに天台山を目指します。還学生には時間がありません。
2002.11.23