法華経の教えと実践


※注※ 以下、天台大師智(ちぎ)は「智ギ」としています。

 (1)法華経には釈尊究極の教えが説かれている

 お釈迦様は不特定多数の人々に、それぞれの状況、立場にあった教えを説かれました。その一々が「如是我聞(我かくの如く聞けり)」と始まる、所謂お経です。従って、神の啓示をまとめたキリスト教のバイブルのようでは事足りず、仏教の経典は膨大な量になるのです。しかも、時と場合、人に応じた教えの内容は、或る時には白であり、或る人には黒であり、赤にも青にもなるのです。いったいお釈迦様は何をどのように考え、お説きになられているのか? 中国の仏教家達は、教相判釈(きょうそうはんじゃく)と言って、この問題を何とか解明し、お釈迦様の教えを統一していこうと試みるようになりました。

 天台宗の高祖智ギは「五時八教判」といわれる独特の教相判釈を展開して、『妙法蓮華経』こそが数ある諸経典すべてのエキスを取り入れた、お釈迦様の教えの究極、即ち「円教(えんぎょう)」であることを明らかにしました。

 つまり、法華経の前半迹門には、法華経以外の諸経は人々を真実の教えに導くための権(かり)の教えであり、法華経に至って実(じつ)の教えが明かされることが示され、後半本門では、仏教は過去・現在・未来に通じる普遍的な教えであると説かれることを明瞭にしたのです。これを「開権顕実(かいごんけんじつ)」といい、「法華開会(ほっけかいえ)」といいます。なお、法華経を説いたお釈迦様は、後に涅槃経(ねはんぎょう)を説いて、諸経や法華経の教えを理解できなかった人々をもきちんと救ってくれます。これを「クン拾」(くんじゅう、クン=才+君)といいます。
 智ギ禅師の教相判釈については、大変おもしろいのですが、いささかややこしくもなりますので、心残りではありますが、ここでは省略します。


 

 (2)法華経の教えの実践方法を止観という


 お釈迦様は、苦行の末これを捨てて、尼蓮禅河で沐浴した後、菩提樹の下に吉祥草を敷き、静かに座して悟りを開かれました。
 智ギ禅師は、この悟りのための実践方法を座禅といわず「止観(しかん)」とし、禅即ち止観は座のみによって体現されるものではなく、行住坐臥、人の生活のあらゆる場面で体得できるものであると解釈しています。心の乱れを止めて精神を統一し、正しい知恵を興起させてあらゆるものごとを正しく観察し理解するというのが止観の意味です。これには、

○漸次止観(ぜんじしかん)〜浅より深へ
○不定止観(ふじょうしかん)〜能力に応じて
○円頓止観(えんどんしかん)〜直接真実の相(すがた)を観(み)る

の三種の方途がありますが、天台宗の止観は円頓止観において本領を発揮します。


 (3)止観を成就して一心に三観を知る

 止観の目的は、すべての存在はそのままの状態で真実であると悟ることにあります。
 つまり、私達の一瞬の心で空観(くうがん)と仮観(けかん)と中観(ちゅうがん)という三つのものの見方を同時に行うのです。
 たとえば、目の前に「法華経の教え」という本があるとします。しかし、本は紙であり、紙は本であり、もともと地上にその本は存在しなかった(常識立場の否定=囚われからの解脱=空観)。
 しかしながら、この本によって私たちはさまざまな知識を学ぶことができるという事実もある(現象世界の肯定=空を全うして得られる仏の智恵=仮観)。
 この両者は別々のものの見方ではなく、両者を並べ用いることに意義がある(中観)。この三つの観を一秒の何百分の一という刹那の間に同時に自己の心で把えるわけです。この場合、どの観にも他の二観が備わっているという考え方を持つことが重要です。
 一心三観によって三つの真実相「空諦(くうたい)・仮諦・中諦」を平等に悟ることを円融三諦(えんにゅうさんだい)といいます。



2002.11.23